なくしたものと、これからと。

rkhonda2004-04-15

先日、ドリフターズのリーダー、いかりや長介さんが亡くなった。人間はいつか死んで灰になる運命ではあるけれども、死というものに対して改めて考えさせる出来事でもあった。いかりやさんが残したものは大きく、そして天国へ持っていってしまったものはまたさらに大きい。
そのひとつにいかりやさんのホームグラウンドであるお笑いがある。ドリフの衰退とともに次々と新しいお笑い番組とタレントがテレビに現れ、また消えていった。そのお笑いのスタイルの多くが他人を蹴落として笑いを取るというもの。確かにそれは番組として面白いのかもしれない。実際に視聴率も取れているようだし、そのタレント達の収入はとどまる事をしらない。
ただそれで少なからずとも傷ついている人の事をテレビでは決して見せる事はない。蹴落とされたのが一緒に番組を作っているタレントであればそれは仕事である。自分で選んだ道だから何も言うつもりはない。
最近ではそれを一般の視聴者に対して行う低俗な番組とそれを得意とするタレントをよく見るようになった。それを見た視聴者はどう思うだろうか?あぁこうすれば笑いがとれるのか、こうすれば面白いのかと思ってしまうのが人間である。それがまだ人格形成もろくにされていない子供達が見たらきっとそれを真似するのは当たり前な事だと思う。
『いじめ』っていう言葉は最早、日本だけの言葉ではなくお隣の韓国でもそのまま通じる言葉らしい。いじめは様々な要素が複雑に絡み合ってとても簡単に解決できる問題ではないけど、今の他人を蹴落とすようなくだらないお笑いは少なくともその行為に加担していると感じる。
ドリフの笑いには愛情があった。そこには緻密に計算された本当のお笑いの原点があったように思う。いかりやさんが亡くなったことで、我々は目に見えないとんでもなく大きな何かを無くしてしまったのかもしれない。