小指のおもひで。

志麻姐さん

これは、ここに来る前にワイン屋で働いていた頃の話。ワインは他の酒とはちょっと違う。発売日初日のゲームを求め、開店の何時間も前から並ぶ子供のように大の大人がまったくそれと同じ事をしたり、またはキザだから高いから難しいからと忌み嫌われたり、敬遠されたりする不思議なお酒。そして接客や知識を必要とする数少ないお酒でもある。自分もこの会社に入る前は、酒はあまり飲まなかったし、ワインなんて片手で足りるぐらいしか口にしたことは無かった。それでも何とかやってこれたのは、いい先輩達に恵まれたからだと思っている。
その店を訪れるのは、大半が一般人と言われる自分と全く変わらない人種なのだが、たまにそれから逸れる人種も訪れる。それはご立派な国会議員であったり、有名企業の重役だったり、芸能人を含めた有名人だったり・・・だいたい彼らは、普通の人達とは明らかに金銭感覚がおずれになっているので、一本何万もするワインをケースで平気に買ったりする。多くのサラリーマンは限られた小遣いの中、やりくりして大好きなワインを如何に安く買うかを常に考えているのに。人生とは何とも不平等なものだ。

これはそんなちょっと変わった状況が生んだ他愛も無い話。
ある時、4人ぐらいの客がワインについて詳しく知りたいと言ってきた。それほど忙しくもなかったから、それぞれを十分すぎるぐらい細かく説明した。それこそ人間の生い立ちから今に至るまでのように。大抵の客はその中から自分がいいと思ったワインを財布の許す限り買ってくれる。それが普通だ。所がその一行、薦めるもの全て買ってくれる。予算達成、ラッキーっと思いつつ、その人達を改めて見渡すと、どうも不釣合いな一団。派手な色の仕立てのいいスーツに身を固め、オレの話を食い入るように聞き、次々とワインをカートに入れる50代半ばぐらいの男。この志茂田景樹に少し似た男が、その中で一番偉いようだ。そのすぐ脇には色白の切れ長の目をした女がいて、質問してくるのはだいたいこの女だった。年は30代ぐらいだろうか。女はいくらでも変わるからよく分からない。高そうなブランドのバッグとそれに見合った格好をしている。
時折、店内を歩きながら接客するのだが、そのちょっと後ろに二人の男がぴったりとついている。一定の間隔から決して離れることなく黙ってついてくる。一人は40代半ばぐらい、角刈りでネクタイこそしていなかったものの、白いシャツと黒いスーツを着ていた。ただそれを着こなしているとは言い難い。八百屋をやってるどこかのオヤジが、葬式があるからと、久しぶりに袖を通したという感じだ。そしてその横にはまだ20歳にもなっていないであろう短髪の青年が青いジャージで立っている。客観的に見れば見るほどおかしい光景だ。その笑いを腹の中で押し殺しながら、百万ドルのスマイルと抽象的なワイン独特の自分でもワケの分からない言葉でまくし立てる。その言葉に惑わされてか納得してか、カートはすぐにいっぱいになる。ジャージの男がすぐに新しいカートを持ってくる。とてもよく訓練されたナイキのジャージである。ロボットかとも疑った。そんなやり取りが続いた後、志茂田景樹がおもむろにズボンのポケットから左手を抜いた。その指には小指がなかった。それは事故とかではなく、紛れもなくそっちの人だというのはすぐに感じ取れた。そんな人を見たのは初めてではなかったが、あまりに不用意だったのでそれをじっと見てしまった。時間にするとそれは1秒にも満たないぐらいの一瞬だったが、その男はそれに気づき、一言「気になるか?」と、にやっとしながら言った。不意をつかれたので、多少焦りはしたが、ジャニーズばりの白い歯を見せた笑顔と、みのもんたのような馴れ馴れしい話術で切り抜けた。結局、彼らはその時、何十万もの大金をたかが飲み物につぎ込み、ご機嫌で店を後にしたのだ。

それから彼らは頻繁に訪れるようになった。相変わらずの羽振りの良さで、以前ほどのぎこちなさも互いになくなり、距離がずっと近くなったと感じていた。ただこの志茂田景樹に似た親分と思しき男は、よく分からないおっさんだった。この前のワインはどうだったかと尋ねると(参考になるよう必ず聞いてた。カルテみたいなもの)、「あぁ、あれな。良かった、良かった。評判よかったで。ただ、もうちょっとあれだな、もっとこうボワっとしたのが欲しいな」とか、平気で言うのだ。こっちとしてはそのボワっとしたのをもうちょっと具体的に知りたいのだが、このおっさんボキャブラリーが少ないのか、ただそれをアホな小学生のように繰り返す。しかも同じワインなのに日によって言ってる事がかなり違う(試しで聞いてみた)とにかく擬音で全てを説明しようとする、いや説明できると思っている。まるでミスター長嶋のようなお方である。最初にそれを言われた時、うーんと考えながら色々と探りを入れていると、喋る事がほとんど無かった40代の男が「ボワっと言えば分かるやろ!あんたプロやろ!」とアホがまた増える始末。こういうアホの扱いには慣れてはいたが、その時は姐さんと思われる女が助け舟を出してくれた。この姐さん、今までにかなりのワインを飲んでいるようで、それなりに知っている。どうやら最近、親分は入れあげてるこの女のせいでワインの世界に入って来たのだなとサルでも分かる答えを示してくれた。

買い物が終わると、親分と姐さんは決まってすぐ上の階にあるブランドショップに二人で行く。その間に角刈りとジャージと共に少し離れた所に停めてある凡人には理解できない改造を施した黒いベンツにワインを積み込む。一台目の台車はジャージが押して行き、車で待っているのが暗黙の了解だ。2台目の台車を最近舗装され直した間っ平らなアスファルトの上で、オレが押しながら角刈りと歩く。すると角刈りが「さっきは悪かったな。強い事言うてしもて・・・」と、やけにしおらしく謝ってくるではないか。正直、そんな事はさっき一度に何十枚もの札束を数えてから忘れていた。それに無意識に小物扱いしていたからなのか、気にも留めていなかった。その男が謝っているのだ。当然、そんな事はどうでもいい。だが男は続けて「ワシも立場があるから許してくれや」と謝る。気にしないで下さいみたい、分かっていますからなどと、キリストのような言葉に角刈りは、ただただ恐縮するばかり。喋りが時々、関西弁だけど生まれはと尋ねると北海道だという。関西弁だと凄みが出るからと、はにかみながら答えた。このおっさん、気が小さいのに間違って、そんな世界に足を踏み入れたんだなと、少し同情したりもした。前から気づいていたのだが、角刈りも小指がないのである。向こうは弱気だから、これはチャンスと思い、その指の事を聞いてみた。角刈りは笑いながら、それが想像以上に痛かったこと、そしてヘタ打って切らざるをえなかった事などを話してくれた。そして若いオレに間違ってもこの世界には入るなよと当たり前すぎるアドバイスをし、道端で互いに大声で笑いあった。あとヤクザはお宅のクレジットカードに入れるかとマジメに聞いてきたりもした。年は親以上に離れていたけど何だかとてもいいヤツのように思えた。

車に3人で積み込んでいると、お好みのモノが今日はなかったのか、手ぶらで親分と姐さんが車に戻ってきた。その日の親分は終始ご機嫌で、ご苦労さんと言いながら、積み終わったオレの肩をポンポンと叩いた。またよろしくとあいさつを済ませ、車を見送ろうとすると、親分が「今度、一緒にワインでも飲もう。いつが空いてる?」と、あんまりありがたくないお言葉。わいんでも?「でも」って何だろ?と考えながら、うまい言い逃れを脳細胞総動員で探していると、角刈りが彼も忙しいそうですし・・・などとうまくはぐらかしてくれた。ナイス角刈り!である。親分もうん、そうかみたいに納得して、まぁヒマが出来たら言ってくれと笑いながら車に乗り込んだ。車が出る際に運転していた角刈りが軽く2度クラクションを鳴らした。振り向くように窓から顔だけを出し、軽く握った左手の親指だけを突き出し、ニコっと笑った。オレも同じように親指を出し、それに応えた。
今のオレは金も地位も名誉も何一つ無いが、小指がまだあるのは、少なからずとも彼のおかげなのである。・・・そんなワケないけど、そう考えたほうが何だかステキに思えて来る。